第6章 蜘蛛の糸布の誕生

 アリシアはそれからも、実験室にこもる日々を何日か続けた。蜘蛛糸の固化剤だけではない。身体を養う滋養の魔薬も煎じ、ついでに常備用として、眠気覚まし、止血、魔力回復の薬まで揃えていく。

 彼女は早産で、生まれつき身体が弱い。家族に大切に抱えられて育ったぶん、土台が薄いところへ、いまはなおさら消耗している。高等な魔薬の強い薬気は、若い肉体には刺激が過ぎた。だから数日おきに低階の補薬を1本、ゆっくりと馴染ませる。焦らず、確実に――まずは器を整える。

 とはいえ、ずっと部屋に閉じこもりきりでもない。頃合いを見て庭へ出て、短く散歩もした。執事に余計な勘繰りをさせて、また父へ手紙を飛ばされては面倒だ。

 だいたい3日ほど経った頃、冒険者ギルドから使いが来た。掲示していた魔蜘蛛糸の買い取り依頼が、達成されたという。前金はすでに納めてある。ギルドが規格に合う糸を検品して預かっているので、あとは屋敷から引き取りに行くだけ――そういう段取りだった。

 命じられた使用人が出向き、戻ってきたのは、大樽ひとつ分の「それ」だった。

 魔蜘蛛糸。重量にして二百斤を優に超える。

 ただし、見た目は最悪だった。糸はべったりと絡み合い、泥と血と何かの体液で薄汚れて、元の色すら分からない。どうやら冒険者たちは手間を惜しみ、魔蜘蛛を狩るなり糸腺から糸を絞り出し、肝心の糸腺は「いらない」と捨ててきたらしい。結果、糸だけがぐちゃぐちゃに絡み、汚染された巨大な繭の塊のようになっていた。

 執事はすでに、彼女の指示どおり、腕のいい織り子を十人手配して屋敷に住まわせていた。アリシアは大きな浴槽を運ばせ、希釈した蜘蛛糸固化剤をどぷどぷと注ぐ。そこへ大樽の糸を丸ごと流し込み、力のある男僕に木の棒でひたすらかき混ぜさせた。

 固まっていた糸が、薬液の中で少しずつほどけ、ゆっくりと広がっていく。十分に散ったところで手を止めさせ、そのまま一晩浸すことにした。男僕は汗だくで肩を上下させていたが、浴槽の中では糸がようやく息を吹き返したように、ふわりと伸びていた。

 翌日。

 アリシアが浴槽の縁に手をかけ、そっと覗き込むと――昨夜まで塊だった蜘蛛糸は、信じられないほど細い一本一本にほどけていた。汚れもすっかり落ち、薬液の底に沈んでいる。

  彼女は一筋をつまみ、指先でくるりと撚ってみる。さらに、ぐっと引いた。

  髪より細い糸が、もう粘り気をまるで持たない。それでも強靭さは失われず、ぷつりとも切れないまま、純白の中にかすかな透明感を宿して光った。

  そこでようやく、アリシアは思い出す。

  ――染色剤、用意していない。

  魔蜘蛛糸は魔法素材だ。普通の染料では色が乗らない。専用の染色剤で「素材の色そのもの」を変えなければならない。彼女はその件をメモに記し、後日、染めの職人を探して色を入れることにした。幸い、染色剤の調合に要る材料は、今回揃えた品の中でも入手が難しくない。

  洗い上げた糸を干し、乾かしてから、アリシアは織り子十人を呼びつけた。庭先の縄にずらりと並ぶ糸束を指し示す。

  「乾いたら、全部、布にして」

  織り子たちは生涯この道の職人だ。糸の軽さが尋常でないことは一目で分かった。だが「蜘蛛糸」と聞いた瞬間、顔が強張る。しかも髪の毛より細い。これが本当に布になるのか――疑いが先に立つのも無理はない。

  許しを得て、彼女たちは近づき、慎重に確かめた。糸端を指に二周巻きつけ、両端を張って力いっぱい引く。ぴん、と張ったまま、びくともしない。次に撚れば、しなやかで、しかも芯がある。明らかに上等な織り糸だった。

 ようやく不安が消え、十人は仕事を引き受けた。互いに目を交わし、どこか誇らしげに頷き合う。公爵家で、こんな珍しい布を扱える――それだけで「箔」がつく。屋敷には紡ぎ車も織機も揃っており、賃金は相場より高く、三食付き。残らない理由がない。

  十人が手を休めずに動き続け、数日で、アリシアが衣装を何着か仕立てられるだけの布が織り上がった。とはいえ、長さ3メートル、ロングドレスにできる一反を、むらなく平らに織り切るのは骨が折れる。職人たちは気を張り詰め、最後まで集中を切らさなかった。

  そして数日後、最初の一反が完成した。

     雪のように白く、蝉の羽のように薄い。触れればひんやりと冷たく、つるりと滑らかで、最上の真珠めいた艶がある。くしゃりと握っても、手を開けばすっと平らに戻り、皺ひとつ残らない。引っ張れば薄さに反して驚くほど丈夫だった。

     軽い。涼しい。肌着にも、夏の上着にも、これ以上ない。

     ちょうどその頃、仕立て屋の女主人が、アリシアが注文していた学院の制服を届けに来た。玄関をくぐるなり、彼女の視線が干し縄の布へ吸い寄せられる。ぴたり、と足が止まった。

     二歩、近づく。手を伸ばしかけて、はっと引っ込める。

     しばらく呆然と立ち尽くしてから、女主人はかすれた声で尋ねた。

     「……これは、いったい何の布で?」

     長年商売をしてきて、こんな軽さと美しさの布は見たことがない――その顔だった。

     頭の中ではもう、使い道が弾けるように並んでいるのだろう。肌当たりが良く、下着にも夏の外出着にも最適。ひんやりと通気がよく、着ても蒸れない。目の肥えた貴族夫人や令嬢が見れば、奪い合いになる光景まで想像できる。

    アリシアはミルク入りの紅茶をひと口含み、淡々と言った。

     「この前話したでしょう。蜘蛛糸布よ」

     女主人の顔色がわずかに変わるのを見て、付け足す。

     「安心して。魔蜘蛛糸の大半は毒なんてない。布も同じ」

     女主人は気まずそうに笑った。だが次の瞬間には、商人の目がきらりと光る。

     ――魔蜘蛛糸が布になる。こんな珍品、もし出どころを押さえられたら。

     探るように、彼女は言う。

     「これは……錬金術師の技ですか?」

    アリシアは首を横に振った。

     「織ったのは女工よ。錬金術師じゃない」

     女主人の目がぱっと明るくなる。

     「では、公爵家が独自に生産している新しい布で?」

     アリシアは一度だけ女主人を見て、頷いた。それ以上は語らない。女主人も察して口をつぐむが、心の中では決めていた――後で執事に聞こう、と。

    アリシアは布の使い道をその場で割り振った。四枚は、自分用に。寝間着を二着、制服の型でロングスカートを二着。端切れは手袋と靴下へ。肌着は外に任せるのが憚られるので、一枚は屋敷の侍女に縫わせるために残す。

    残りの五枚は、父と兄のためだった。

    軍団に常駐し、毎日訓練。季節はこれから暑くなる。ひんやりと通気がよく、しかも多少の防御性まである蜘蛛糸布で、替えのシャツやズボンを仕立てるのは理にかなっている。

     薄いのに、水も火も通しにくい。並の刃では裂けにくい。さらに魔法陣をいくつか刺繍すれば、中低級の魔法鎧より防御力が出るだろう。

     ――ただ、父も兄もいまは軍営だ。これを目の前で見せられないのが惜しい。

     この「家族」というものに対して、アリシアの胸中は少し複雑だった。もう一つの人生の家族は、百年以上前に死に絶えている。理屈では分かっている。ロゲスト家の人間は、彼女の「本当の」肉親ではない。けれど、公爵令嬢としての記憶を引き継いだ以上、その情もまた、彼女の中に残ってしまった。

     だから、いいものが手に入ると、まず彼らの顔が浮かぶ。

     仕立て屋の女主人は裁断を引き受け、父と兄の寸法を確認した。店に記録がなければ執事に聞く、と言う。蜘蛛糸布を扱える魔法道具が店にあることも確かめ、布を抱えて帰っていった。去り際、彼女は染色剤の瓶をやけに丁寧に抱え込んでいた。

     白を染めたら、どれほど美しくなるか――試したくて仕方がないのだろう。

     それから、蜘蛛糸の納品は途切れなくなった。

     依頼は数量無制限、期限なし。報酬は掲示どおり、1枚の銅貨も欠けない。受ける冒険者が増えるのは当然だ。大束の蜘蛛糸が次々と公爵邸へ運び込まれ、執事は専用の部屋をひとつ空け、管理の使用人までつける羽目になった。

     アリシアはさらに3,000金貨を投じ、中級から上級の魔蜘蛛糸の買い取り依頼も追加で掲示した。小金庫は一気に軽くなり、残りは2,000金貨あまり。

     一方、仕立て屋の女主人が執事に探りを入れに来たとき、執事のほうもすでに蜘蛛糸布の価値を理解していた。生産量はどれほどか、売るつもりはあるのか――以前からアリシアに確認している。主人がひと言うなずけば、商いはすぐに動き出す。

     だがアリシアには考えがあった。

     蜘蛛糸布は、まだ大々的に売らない。まずは染めて色を入れ、意匠を刺繍し、貴族社会で「名」を立てる。そうして初めて、値付けも販路も、こちらの思うとおりに握れる。

     もっと先の話は、いまは胸の奥へ押し込める。

     目の前の一つ一つを、確実に形にする。それが正道だ。

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